筑前国一宮の筥崎(はこざき)宮です。921年に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神として現飯塚市の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まります。醍醐天皇が「敵国降伏」の宸筆を下賜されこの地に社殿を建立しました。筥崎八幡宮とも呼ばれ、宇佐神宮、石清水八幡宮と合わせ三大八幡宮と呼ばれています。
敵国降伏の扁額が楼門に掲げられていますが、亀山上皇の御宸筆を拡大したものが掲げられています。1174年蒙古襲来(文永の役)により炎上した社殿再興にあたり亀山上皇が納められたものです。この後弘安の役がおこります。蒙古襲来の困難を乗り越えたことから、足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉と名だたる武将が参拝しております。
戦いの神がおられ、楼門に「敵国降伏」の扁額を掲げるこの神社。筥崎宮は古代から鎌倉時代まで外敵への守りの最前線にあります。外敵の来襲の脅威に対して鎮護の神威を心から期待する人々の信仰心が、この宮の壮大さを創ってきたんだと感じた参拝となりました。
敵国降伏の扁額が楼門に掲げられていますが、亀山上皇の御宸筆を拡大したものが掲げられています。1174年蒙古襲来(文永の役)により炎上した社殿再興にあたり亀山上皇が納められたものです。この後弘安の役がおこります。蒙古襲来の困難を乗り越えたことから、足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉と名だたる武将が参拝しております。
戦いの神がおられ、楼門に「敵国降伏」の扁額を掲げるこの神社。筥崎宮は古代から鎌倉時代まで外敵への守りの最前線にあります。外敵の来襲の脅威に対して鎮護の神威を心から期待する人々の信仰心が、この宮の壮大さを創ってきたんだと感じた参拝となりました。
鳥居とお潮井浜 博多湾に面する鳥居から本殿まで約850メートルの長大な参道が続く。参道の先の海岸は清めの真砂を貰い受ける「お汐井とり」が行なえるよう砂地となっている。
当日の参道では蚤の市が行われ、多くの市民が楽しまれていました。
一之鳥居 1609年藩主黒田長政建立。「筥崎鳥居」と呼ばれ国の重要文化財。石造りの明神鳥居。
楼門です。1594年筑前領主小早川隆景が建立。「敵国降伏」の扁額(へんがく)を掲げていることから伏敵門とも呼ばれています。通常がこの楼門からの参拝となります。
敵国降伏の扁額 亀山上皇の御宸筆を拡大したものが掲げられています。1174年蒙古襲来(文永の役)により炎上した社殿再興にあたり上皇が納められたもの。
モンゴル軍の船の碇として使用されたと伝わる石。長さ2メートル重量250kg。昭和15年に、博多港中央埠頭の北東で発見されました。
右が拝殿、左が本殿となります。1514年大内義隆が建立。国の重要文化財。
本殿(右)・拝殿(左)を側面から撮影しました。
ご神木「筥松」 楼門右手の松の木。神功皇后が応神天皇を出産した際の胞衣(えな・胎盤)を箱に入れてこの地に納め、印として植えられたのが「筥松」。「筥崎(箱崎)」の名称はこの胞衣を納めた箱に因むとの事
手水舎 6月限定の花手水
亀山上皇尊像奉安殿
御朱印です。
以下ウィキペデイアより抜粋
所在地 福岡県福岡市東区箱崎一丁目22-1
位置 北緯33度36分52.92秒 東経130度25分23.28秒座標: 北緯33度36分52.92秒 東経130度25分23.28秒
主祭神 応神天皇
神功皇后
玉依姫命
社格等 式内社(名神大)
筑前国一宮
旧官幣大社
別表神社
創建 延喜21年(921年)
本殿の様式 流造
例祭 9月15日(放生会)
主な神事 玉せせり(1月3日)
春期社日祭(春分に近い戊の日)
秋期社日祭(秋分に近い戊の日)
メモ 180