大興善寺です。佐賀県三養基郡基山町にあります。717年、行基が開山したと伝わる佐賀県屈指の歴史を誇る天台宗の古刹です。行基がつくった十一面観世音菩薩1躯(秘仏)・そして国の重要文化財の木造広目天立像と多聞天立像 2躯が本堂に安置されています。
江戸時代、この大興善寺一帯の基山が対馬藩の飛び地の藩領になりました。作物を送って農産物の生産の少ない対馬島の生活を支えていた関係から、江対馬藩領主の宗氏により本堂の整備がなされ、寺領が寄進されました。歴代の宗家のご位牌を収めた「宗家御霊堂」が明治時代この大興善寺に移設されております。
明治維新と神仏分離政策による廃仏毀釈により、神仏習合していた大宰府天満宮から仏教が切り離されました。行き場のなくした仏像・仏具の多くはこの時代にこの寺にやってきております。
大正時代から境内につつじを植樹し昭和にかけて拡大してこられ、別名「つつじ寺」と呼ばれるほどのツツジの名所となりました。全国から数万人が押し寄せる花の寺として有名です。次回はつつじの最盛期にお参りしたいと思います。佐賀県の密教寺院の古刹ならではの歴史の深さを感じた参拝となりました。
江戸時代、この大興善寺一帯の基山が対馬藩の飛び地の藩領になりました。作物を送って農産物の生産の少ない対馬島の生活を支えていた関係から、江対馬藩領主の宗氏により本堂の整備がなされ、寺領が寄進されました。歴代の宗家のご位牌を収めた「宗家御霊堂」が明治時代この大興善寺に移設されております。
明治維新と神仏分離政策による廃仏毀釈により、神仏習合していた大宰府天満宮から仏教が切り離されました。行き場のなくした仏像・仏具の多くはこの時代にこの寺にやってきております。
大正時代から境内につつじを植樹し昭和にかけて拡大してこられ、別名「つつじ寺」と呼ばれるほどのツツジの名所となりました。全国から数万人が押し寄せる花の寺として有名です。次回はつつじの最盛期にお参りしたいと思います。佐賀県の密教寺院の古刹ならではの歴史の深さを感じた参拝となりました。
小松山の静かな麓にあります。その静けさに不釣り合いな大きな駐車場が左奥にあります。いかにこの寺のつつじを見る観光客が多いのかを実感できます。
石段(127段)はきぼうの坂と呼ばれています。 大興善寺のシンボル。4月末から5月初旬には、石段の両脇のつつじが咲き、花名所としても知られております。
境内につつじを植樹し、昭和にかけてつつじ園を拡大してきました。シーズンには全国から数万人が押し寄せる花の寺として賑わっているそうです。
仁王門 茅葺の本堂とあわせて、佐賀県遺産に指定されています。
鐘楼です。
本堂 1624年に対馬藩藩主宗義成が再興されました。茅葺屋根が特徴。 本堂正面奥に、大興善寺ご本尊秘仏十一面観世音菩薩様(行基作・午年12年に一度開帳)が安置。小松山観音と呼ばれ古より信仰されております。
本堂正面奥に、大興善寺ご本尊秘仏十一面観世音菩薩様(行基作・午年12年に一度開帳)が安置。小松山観音と呼ばれ古より信仰されております。明治維新と神仏分離政策では神仏習合していた大宰府天満宮から仏教は切り離され、行き場のなくした仏像・仏具がこ明治時代初頭にこの寺にやってきて祀られております。
宗家は対馬ですが江戸時代には飛び地として田代領(現在の基山町・鳥栖市の一部)を治めていました。「昌元寺」に代々のご位牌を収めた「宗家御霊堂」がありました。明治になってからこの大興善寺に移設されました。(写真大興善寺HP複写)
境内にある熊野神社です。
主祭神は「木花咲耶姫」最初は基山山頂に瓊瓊杵尊といっしょに祀られていましたが、、契山の麓である大興善寺境内の現在の鎮座地に鎮座。地元小松村の鎮守となり、氏子の小松集落の人々は、「権現さん」と呼んでいます。この熊野神社は、大興善寺と併設された神仏習合の施設であったといわれております。
マリア観音です。本堂奥にあります。
つつじもみじで有名。全国的にも有名です。
興善寺の案内書
どぶろっくのお二人とも、基山町の出身地です。ちなみにキングダムの原 泰久さんも・・すごい!
御朱印です。
以下ウィキペデイアより抜粋
所在地 佐賀県三養基郡基山町大字園部
山号 小松山
宗派 天台宗
本尊 木造十一面観音
創建年 養老元年(717年)
開基 行基
文化財 広目天立像(重文)、多聞天立像(重文)
山号 小松山
宗派 天台宗
本尊 木造十一面観音
創建年 養老元年(717年)
開基 行基
文化財 広目天立像(重文)、多聞天立像(重文)
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